松下村塾。松陰神社の境内にある。吉田松陰は、1857年(安政4年)年出獄(米艦に乗船を企てて投獄された)して、杉家に幽閉中、叔父玉木文之進の私塾「松下村塾(天保13(1842)年〜)」を引き継ぎ、安政の大獄(安政6年10月27日)により29歳で刑死するまでの2年半、若き門下へ新しき日本を拓く実践の道を熱く説きました。
当時、吉田松陰28歳の若き師は、久坂玄瑞、高杉晋作、井上馨、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義など幕末から維新にかけて光彩を放つ人材を育成しました。
この松下村塾は、杉家の物置小屋を改築したもので質素な小さな建物です。藩が作った学校である明倫館へ入学できないような下級武士の子弟が多く学んだことも有名な話です。
明治維新で活躍する多くの人々を輩出した松下村塾の運営が、松蔭28歳・わずか2年半とは知りませんでした。
■松下村塾。
伊藤博文旧宅。茅葺き平屋の質素な建物。博文は、1841年9月2日(天保12)周防の国熊毛郡束荷村(現在熊毛郡大和町)で、百姓林十蔵、母琴子の長男として生まれました。1854年(安政元年)父が家族を連れて、萩藩の中間、水井武兵衛(伊藤直右衛門)の養子となり、この家に住むことになりました。博文14歳の時でした。博文が17歳の時に近くの松下村塾に通って吉田松陰の教えをうけ、尊皇攘夷運動の志士として活躍しました。明治元年(28歳)、初代兵庫県知事に赴任するまでの14年の間ここを本拠としました。
その後、明治憲法制定の任にあたってその功を遂げ、初代内閣総理大臣、枢密院議長、貴族院議長に就任するなど政府の要職を歴任しました。しかしながら明治42年69歳、ハルピン駅頭で凶弾に倒れました。
■伊藤博文旧宅。
■吉田松陰誕生の地から見る萩の風景とお墓。非常に展望の良い場所。海に突き出た円い山が萩城跡のある指月山。